孤独と理解

俺の書くものは理解されないだろう。
百人に一人。いや千人に一人。いや、世界に一人いるかいないかかもしれない。
別にそれを悲しんでるわけでもない。そんなに簡単に理解されるのなら、わざわざ書く必要も苦しむ必要もない。適当に楽しくやってるだろう。

だけどその社会はちっとも楽しくない。

わざとらしくて、息苦しく、アホだから、自分のなかにあるものを書くのだ。

このように、まず俺が社会を理解もしていないし共感もしてない。だから理解も共感もされるわけがない。

だけど、理解されないために書いているわけでもない。俺のなかにあるものを、できる限り忠実にそのままの形を取り出そうとしてる。前回書いたように、自分のなかにあるものを解明するためだ。

そのように、まず俺が理解していないのだ。
世界にひとりいるかもしれない理解できる人とは、まずは自分のことなのだ。〈あわよくば〉理解できる人がいればいい。同じ孤独を共有し少しは呼吸も楽になるかもしれない。

「書く」というのは多数に向かって書くものではない。ごく限られた者に書く密やかな行為だと思っている。手紙がそうであるように。それが多数になればなるほど嘘になる。選挙演説のように。或いは広告のように。
だけど、わざわざ理解されないために書いている偏屈者でもない。だけどそれは〈あわよくば〉であって、目的ではない。~Canon's word Synchronicity





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